㉒松居一代とブログに集まっている「家族」に絆は存在するか?




絆とは

きずなきづな)は、本来は、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱。しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。「ほだし」、「ほだす」ともいう。人と人との結びつき、支え合いや助け合いを指すようになったのは、比較的最近である。(ウィキペディアより)

松居一代ネタも収束に向かいつつありますが、ふと彼女が常々口にする「家族のみんな」と彼女自身に、絆は存在するのか考えてみた。

絆リスクについてのお話

つい先日、彼女のブログ内で東日本大震災の件について触れていた。「絆」という言葉が良く使われたのはこの時期であった。マスコミも絆という言葉を幾度となく取り上げ、過剰な程にこの一見聞こえのいい言葉を使い倒していたと思う。まあ、国民も使ってたけど。丁度その後に競馬でも「キズナ」っていう馬がダービー馬にもなったから余計、印象に残ったのかもしれない。

絆が多用されていた時期、個人的にはその風潮に対してなんとなくもやもやしていたものがあって、でもそれを頭の中で整理できない自分がいた。そんな時、社会学者の宮台真司の話がとてもしっくり来たのを思い出す。

「絆」は一朝一夕に簡単に築けるものではない。地震が起きたからといって翌日から「はい、絆をみんなと結べるようになりました!」なんてことはありえない。絆にはリスクが存在する。例えば、近所の人達と絆を持とうと思ったら、近所づきあいをしなければならない。はっきり言って近所づきあいは面倒くさい。町内会の役員をしなければいけないかもしれないし、毎朝井戸端会議に付き合わないといきないかも知れない。それを宮台は「絆リスク」と呼んだ。絆リスクを経た後でないと真の絆は育まれないと。
私が感じていた違和感というのは、絆に対してのお手軽感が社会に蔓延していたためであろう。何か絆を結んだ「気」になってるだけのパターンが多かったのだと思う。ポチッとクリックひとつで募金しても絆は生まれない。

翻って松居一代の家族である。彼女と家族に絆はあるかと聞かれたら、答えはノーである。なぜならネット上でブログに書き込んでいる人たちにはリスクが存在しないからである。対面しての人と人との関わりは、やっぱり基本的に面倒くさいものである。ただ、その面倒くささを乗り越えた後に信頼や絆といったものが醸成される。しかもその関係を継続するのにもやはり面倒な手続きを踏み続けなければならない。例えば年賀状とか暑中見舞いとか。社会全体がメールやラインで済ます方向に行けば行くほど面倒くささと反比例する分、絆は薄まっていく。まあ時間がかかるものは往々に想いと比例しちゃうんだよね。千羽鶴なんてあんなもん貰った所で折り紙自体にさほど価値は感じないでしょ。あくまでも自分を想って時間を費やしてくれたことに価値がある訳で。

でもこの辺の話は、松居一代はわかってる気がする。ブログでもあれだけお世話になった人たちに直筆で手紙書いてる姿見せてるんだから。
あっ、ブログに応援コメント書き込んでる人たちにさっきはリスクは無いと言ったけど、あるね、リスク。
松居一代を応援してると世間に知られることはリスクだね。だから本名で書き込みしてる人がいたらその人とは絆を結べるでしょう。




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